2012年2月8日水曜日

「一汁無菜」 シンプルなメニューが旨い

 私は単品メニューの食事が好きだ。
 もりそばとか、うどんとか、あるいはご飯と何か一品、つまり「一汁一菜」である。そのかわり、それをある程度の量は食べたい。こういう食べ方は、栄養学的には、当然良くないとされている。たしか一日に30品目の食品を摂りなさいとも聞く。
こんな私に対し、うちの奥さんはいろいろのおかずが、ちょこちょことたくさんある食事を好む。たとえば、セット・メニューとか、幕の内的なものとか、懐石料理風のものである。
ときどき奥さんと外食するときに、彼女に付き合って私もそういうメニューを食べることはある。しかし美味しくても、どうしても多少の不満が残る。
並んでいる中で特に美味しい一品を、もっと食べたいのに食べられない物足りなさがまずある。そして、いろいろなものが目の前に並んでいるが故の気ぜわしさ(これはもちろん私の心の中の問題)。さらに、ひとつずつじっくり味わいたいのに、お互いの味が邪魔しあってしまう感じ。ちょっと大げさかな。まあ、わかる人にはわかるし、わからない人にはわからないだろうな。

こういう食事の嗜好は、私の個人的なものなのだろうか。それとも、男性に特有で一般的なものなのだろうか。サラリーマン諸氏には、毎日毎日、お昼にもりそばだけ食べている人がかなりたくさんいるよね。私もその一人だったけど。
ところが女性に関しては、うちの奥さんと同様の「少量他品目」メニュー派の人にしか私は出会ったことがない。これも女性特有の一般的傾向なのだろうか。そういえば、「レディース・ランチ」と銘打ったものには、そんなメニューが多かったかもしれない。

アメリカの作家ウィリアム・サローヤンの小説「パパ・ユーア クレイジー」の中に私と同じようなことを言う登場人物が出てくる。
これは十歳の男の子「僕」と小説家である「僕の父」との二人の生活を、会話を中心に描いた作品だ。「僕の母」は、離婚したのか別居しているのか、一緒には住んでいない。
それまで母と住んでいた「僕」が、今度は父と暮らし始めることになる。最初の食事のときのこと、「僕の父」が自分の作った料理をテーブルに運び、二人は向き合ってそこに座った。それがどういうメニューだったかはもう覚えていない。が料理は一品だけだった。
「僕の父」が自分は単品の料理を量多く食べるのが好きなのだと「僕」に語る。けれど、おまえのママは、いろいろなものを少しずつ食べるのが好きだった、とも。
「僕の父」と「僕の母」との微妙な生活感覚の違いが浮かび上がり、別居するに至るさまざまな事情がぼんやりと暗示されるエピソードだ。
が、それはそれとして、私は単純にこの「父」の食事の好みに共感を覚えたのだ。ああこの人も私と同じだと。ちなみにうちの夫婦の場合は、互いの食事の嗜好性の違いを乗り越えて(?)、夫婦仲は良いほうです。

私も年をとってきたせいか、最近このような単品嗜好というか「一汁一菜」好きがさらに高じてきた。
ひところ「ご飯のお供(友)」というのが流行った。「食べるラー油」ブームの余波だったかもしれない。
「ご飯のお供」として名前が挙がるのは、たとえば、海苔、納豆、明太子、生卵、ふりかけ、漬物、たらこ、梅干し、佃煮、いくら、塩辛などなど。どれも、かなりそそられる。
ご飯と味噌汁と、この中からどれかひと品があれば、ご飯1.5合、お茶碗で4杯くらいは、美味しく食べられそうだ。
ただし、「ご飯のお供」は、いずれか一種類でなければならない。二種以上を取り合わせると、お互いに邪魔しあってよろしくない。
海苔でも納豆でも明太子でもふりかけでも、とにかく一種類のものでご飯4杯。そうすれば、そのものの旨さを味わい尽くしたという満足感を得ることができる。大事なのは満腹感ではなく、この満足感。満腹感も大事だが、私にとってはこの精神的な満足感が食事にはあって欲しい。

ところで「一汁一菜」は、正確に言うと白飯と味噌汁とおかず(惣菜)一品と漬物の四種をセットにして食べることだ。通常、漬物は数に含めないため主食以外が「一汁一菜」ということになる。
「ご飯のお供」として、名を挙げた品々も、この伝でいけば、ちゃんとしたおかずの数には含まれそうもないものばかりだ。これらのどれか一品だけでご飯を食べると、「一汁無菜」ということになる。

今、一人暮らしをしている義理の父がいる。
ご飯だけは自分で炊くが、料理はほとんどしない。昔の人なので洋風のもの、たとえば肉やソースやマヨネーズやドレッシングは口にしない。それでもインスタントの味噌汁と佃煮や漬物のようなもので、きちんと三食、食事をしている。ときどき、好きな刺身を買ってきて食べることはあるらしい。まさに、「一汁一菜」の日常である。
当然周りのものは偏食による栄養不足を心配するのだがが、当人は平気で、たいした病気もせず元気に暮らしている。
その義理の父が、しみじみ言うのだ。栄養のバランスがどうの、ビタミンがどうのと言うけれど、結局、人間は自分の好きなものを「美味しいなあ」と思って食べてさえいれば大丈夫なんだよ、と。

『レコーディング・ダイエット』の岡田斗司夫の説も思い出す。レコーディング・ダイエット法により、最終の段階に達すると、自分の体が今どの栄養素を必要としているかわかるようになるという。
ストレスの解消や惰性の食習慣から自由になって、すなおに体の声を聞き、その時々に求めている栄養を、食事で摂ればよいのだ。それが一番美味しいと感じるし、栄養の過不足はなくなって太ることもないということだ。

私の好きな単品の食事や「一汁無菜」は、美味しいものを、たくさん食べるということだ。それが美味しければ、あとは何もいらない。栄養的には「バランスが取れた食事」とはは言えないだろう。しかし、そういう食事をすると、おなかも満足するが、何より心が満足する。これって、結局大きくみれば体にも良いことなのではないか。

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