2013年9月16日月曜日

私は『アナザー・セルフ・ポートレイト』を買わない


<『アナザー・セルフ・ポートレイト』発注中止>

ボブ・ディランのブートレッグ・シリーズ第10集が発売される。
この話を聞きつけて、私の心も当然色めきたった。しかし、タイトルを聞いてがっかり。『アナザー・セルフ・ポートレイト』。つまりオリジナル・アルバムの『セルフ・ポートレイト』関連の音源らしかったからだ。
ディランのブートレッグ・シリーズは、ずっと買ってきた。ただし第8集の『テル・テイル・サインズ(Tell Tale Signs)』だけはもちろんパス。ディランもピークをとっくに過ぎた1989年から2006年までの音源では聴く気になれない。
今回のブートレッグ・シリーズもやっぱりパスかなと思った。だってあの駄作の関連音源ではね。

今号の『レコード・コレクターズ』誌(201310月号)は、その『アナザー・セルフ・ポートレイト』の特集だ。
この特集で、今回のブートレッグ・シリーズの中身がよくわかった。ふたつのエディションがあって、レア・トラックを2枚のディスクに収めたのがスタンダード・エディション。注目は、この2枚に、さらにディスクを2枚加えた4枚組のデラックス・エディションだ。追加の2枚のうち1枚は、オリジナル『セルフ・ポートレイト』のリマスター。そしてもう一枚が、何とワイト島フェスのライヴの完全版だったのだ。

1969年のワイト島フェスティヴァルにディランはザ・バンドを従えて出演している。このときのライヴ音源のうち4曲が、『セルフ・ポートレイト』に収録されていた。『セルフ・ポートレイト』はもっぱらこの4曲だけを聴いていたものだ。この4曲がこのアルバムの救いと言える。中でも「マイティ・クイン」は、パワフルでとくに好きだった。
それで、このワイト島のブートレッグをずっと探していた。出てはいるらしいのだが、でも手に入れることは出来なかった。それが、ここにきてついにオフィシャル化されるとは。
ディスク1と2のレア・トラック集の中にも、多少気になる曲はある。ハッピー・トラウムとか、ジョージ・ハリソンとかのセッションだ。しかしこれはまあ、聴けなくてもあきらめられる。ディスク4のオリジナル『セルフ・ポートレイト』のリマスターは、もちろんいらない。しかし、ディスク3のワイト島ライヴ完全版。これは欲しい。

興奮した私は、さっそくこのデラックス・エディションをアマゾンで発注しかけたのだった。しかし、よくよく見ると値段が高い。やけに高い。2枚組のスタンダード・エディションが3990円。ところが、これに2枚追加した4枚組のデラックス・エディションは、19800円もする。豪華ブックレットがつくとはいえ、2枚組が4枚組になっただけで、何で値段が5倍になるのか。ファンの足元を見ているとしか思えない。

何とか発注を思い留まり、とりあえず手元にあるオリジナル版の『セルフ・ポートレイト』を聴き直してみることにした。プレーヤーにかけるのは、ずいぶんと久しぶりのこと。そして、流れてくる音を聴いているうちに、私の心はどんどん冷めていった。やっぱりこりゃ何度聴いても駄作だ。すっかり冷静に戻った私は、ファンを馬鹿にしている値段のこともあるし、結局発注を取りやめることにした。


<『セルフ・ポートレイト』は駄作ではないか>

ディランの『セルフ・ポートレイト』は、1970年の発売時にさんざん酷評され、またその後も現在に到るまで一般的な評価がきわめて低いアルバムだ。その理由は一聴すればすぐわかる。これは何ともヘンテコなアルバムなのだ。
今回の特集のメインの記事で、北中正和がうまいことを言っていた。『ナッシュヴィル・スカイライン』と『セルフ・ポートレイト』の制作は、ディランがあえてしてみせた「奇行」だというのだ。つまりヘンなオコナイ。
この2枚のアルバムは、ディランが 「周囲から押しつけられた(時代の代弁者としての)イメージをはぐらかして、自分自身をとりもどしたいという切実な欲求にかられて」 した「奇行」というわけだ(北中「“シンガー”としての活動を試みた『セルフ・ポートレイト』前後のディラン」)。一般的にもそう言われているし、私もまったく同感。
このことはこの特集の鈴木カツの文章中の「ディランはこの2作を振り返って、“遊びだった”と語ることが多い。」という記述とも符合している。

ただし北中は上の指摘のあと、次のようにこれらのアルバムを擁護するのだ。「しかし、いくらはぐらかしても、音楽への興味を誠実に反映することまでは止められなかった。この時期の彼の音楽が、表面的な軽さや調子のよさとうらはらに、深くせつない情感を秘めているのはそういうわけだ。」(同前)。この点に関しては、私はあまり同意できないのだが。

それよりももっと納得できないのは、この特集のもう一つのメイン原稿である鈴木カツの「酷評された“自画像”―43年目の真実」の方だ。

鈴木カツは『セルフ・ポートレイト』の酷評の中でも、もっとも有名なグリール・マーカスの批評を何とか否定しようとしているように見える。
マーカスが当時『ローリング・ストーン』誌に掲載した『セルフ・ポートレイト』についてのレヴューは、「このクソは何だ?(What is this shit?)」という一文から始まっている。つまりこのアルバムは「クソ」だというわけだ。過激だが、気持はよくわかる。

鈴木は、『セルフ・ポートレイト』を酷評したグリール・マーカスを、『追憶のハイウェイ』をけなしたことで有名な『シング・アウト!』誌の編集長アーウィン・シルバーとあえてひとくくりにしている。どちらも自分が持つディランのイメージにそぐわないディランを否定しようとした点で共通しているというのだ。
たしかにアーウィン・シルバーは、フォーク・シンガーとしてのディランのイメージに固執するあまり、フォーク・ロック化に拒絶反応を示した。しかし、彼は間違っていた。今ではむしろディランの全キャリアの中で、フォーク・ロック期の活動こそが、もっとも評価も人気度も高い。それはたとえば『レコ・コレ』誌のディラン・ベスト・ソング100のランキングを見ても明らかだ。時間の経過が、シルバーの誤りを証明したのだ。

鈴木は、シルバーと同様にグリール・マーカスの評価も間違っていたことにしたいようだ。そうすることによって『セルフ・ポートレイト』を擁護したいのだ。
たしかにマーカスは自分が持つディランのイメージにそぐわないために、『セルフ・ポートレイト』を酷評したには違いない。しかし、彼が仮に間違っていたとしたところで、そのアルバムそのものの良し悪しとは関係ない。『セルフ・ポートレイト』はどう転んでも『追憶のハイウェイ』のような名盤ではないのだ。これも時間の経過が証明している。その意味では、マーカスの評価は、やはり正しかったとも言えるだろう。

鈴木カツは、現在ウェブ上にあふれている『セルフ・ポートレイト』は駄作だとするコメントを、マーカスの評価に「準じた」ものという言い方をしている。これもちょっとだけひっかかる。ここでいう「準じた」という意味はよくわからない。まさか、そういうコメントが多いのは、マーカスの「クソ発言」のせいだと言っているのではないだろう。それらの駄作コメントは、それぞれが自分の耳で聴いて感じたすなおな感想のはずだろうから、わざわざマーカスの名を引き合いに出す必要はないのではないか。

1970年にリアルタイムで『セルフ・ポートレイト』を購入した鈴木カツは、「素直に心地よい楽しいアルバム」と感じたという。ちょっとびっくりだ。少なくとも私の周りには、当時そんな奇特な人は一人もいなかった。また実際今回の特集の筆者達の中でも、オリジナル版の『セルフ・ポートレイト』を手放しで褒めているのは唯一鈴木カツだけだ。しかし鈴木がそう感じたのならしょうがない。感じ方は、人それぞれだからね。
しかし、鈴木はこのアルバムを酷評したのは批評家たちだけで、フツーのディラン・ファンは自分と同じようにこのアルバムを受け入れたというのだ。その根拠として、このアルバムが300万枚という枚数を売り上げたことと、全米4位、英国1位というチャート・ランクを記録したことを挙げている。
売り上げ枚数やチャートのランクは、発売前の人気度や期待度などにも左右される。だからそれだけで、ファンに肯定的に支持されたと言ってしまうのは、ちょっと強引過ぎるだろう。

結局『セルフ・ポートレイト』というアルバムは、繰り返しになるが、ディランが周囲から押しつけられた時代の代弁者としてのイメージをはぐらかすために、わざとやってみせたヘンなコトであり、大好きなアイドルたちの曲をカヴァーした「お遊び」なのだ。それでも、楽しめるものになっているならまだいい。しかし、このアルバムはディランと切り離して白紙で聴いても、出来の悪いポップ・アルバムでしかない。まともにとりあうようなものではないし、そんなものに付き合っているヒマは、少なくとも私にはない。

それにしてもワイト島のライヴは聴きたいなあ。
そうだ、デラックス・エディションを必ず買うはずの私の知人に、ディスク3だけダビングしてもらうことにしよおっと。

<おまけ>

こうして『アナザー・セルフ・ポートレイト』の危機は無事に切り抜けることができた。
しかし、今号の『レコ・コレ』誌の広告&記事&次号予告によると、さらにその後に次の攻撃が控えていることがわかった。それは、ザ・バンド『ライヴ・アット・アカデミー・オブ・ミュージック1971 ロック・オブ・エイジズ・コンサート~デラックス・エディション』と、BB&A『ライヴ・イン・ジャパン~40周年記念盤』だ。さらに個人的には、CS&Nの紙ジャケ・コレクション全9枚なんてのもある。
こうして次々に襲いかかってくる危機の数々…。はたして、どうやって迎え撃つべきか。煩悶の日々はまだしばらく続きそうだ。

つづく(?)

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