2013年2月22日金曜日

はっぴいえんど 『はっぴいえんど(ゆでめん)』

   はっぴいえんどのアルバムについて順に感想を書いてみたい。まず最初は、はっぴいえんどのデヴュー・アルバム『はっぴいえんど』(1970)について。
『はっぴいえんど』が正式タイトルだが、そう呼ぶ人は誰もいない。通称『ゆでめん』。当時の私たちもみんなそう呼んでいたし、メンバー達自身もそう呼んでいるようだ。

 まだまだ未完成で中途半端なアルバムではある。たぶんメンバー達自身も自分で何をしたいのかよくわかっていなかったのかと思われる。
しかし今聴いてみると、その若さゆえの頭でっかちで生硬な感じや、攻撃的でトガッているところが何とも愛おしい。

松本隆の詞はまだ十分にこなれていなくて、ときどき荒っぽいところもある。細野晴臣は気負い過ぎていて硬直気味だ。彼本来の調子が出てくるのは次作以降からだ。
そんなわけで、このアルバムにおける松本、細野コンビの曲は「しんしんしん」を除くと、はっきり言ってことごとく出来がよくない。「敵―TANATOSを想起せよ!」、「あやか市の動物園」(この曲のライヴでの演奏は素晴らしいのだが)、「はっぴいえんど」、「続はっぴーいいえーんど」などのことだ。
細野が詞と曲の両方を手がけた「飛べない空」も、プロコル・ハルム的なオルガン中心の重厚作なのだが、やっぱりあんまり面白味はない。
これらの曲はどれも生真面目で生硬で暗い。攻撃的であったり、自問したりするのは、若いゆえの真摯さであり熱さなのだろう。その「青臭さ」がまた良さでもあるのだが…。

これに対して松本、大瀧コンビの曲はもう一歩すっきり抜けている。若さゆえの「熱さ」がストレートに出たのが、冒頭の「春よ来い」だ。
はっぴいえんどの代表曲のひとつだが、この曲の詞は、その後の松本の詞とはちょっと調子が違っている。都会的ではなくて「四畳半的」。そしてクールではなくてベタで一直線に熱い。少なくとも詞の面から見れば、はっぴいえんどの代表作というよりは、むしろ例外的な曲だ。
この歌に左右からディストーションの効いたギターが絡みついて独特の歌の世界が作り出されている。

なぜこの曲の詞だけ調子が違うのか。そのナゾはずいぶん後になって解けた。
1970年4月12日のはっぴいえんどのデヴュー・ステージで、大瀧はこの曲を「永島慎二氏に捧げる歌」と紹介して演奏を始めている(『GREEEATEST LIVE! ON STAGE』に収録)。
この曲は永島の漫画『漫画家残酷物語』の「春」という物語にインスパイアされた曲なのだった。「春」は、漫画家になるために家を飛び出した主人公が、一人で寂しく正月を迎える話だという。「春よ来い」という歌は、この漫画の内容をそのままなぞっている。もちろんはっぴいえんどの4人は、この漫画の主人公の覚悟に自分たちのそれを重ね合わせているのだ。夢を目指して今を耐え、じっと春を待っという覚悟を。

はっぴいえんどには醒めた視線で社会と向き合っているというイメージがある。しかし「春よ来い」の明日へのストレートな熱い思いは、やっぱり当時も今も私たちの心を打つ。

だけど全てを賭けた 今は唯やってみよう
春が訪れるまで 今は遠くないはず
春よ来い
(「春よ来い」)

「かくれんぼ」と「12月の雨の日」は、このアルバムを代表する名曲だ。しかも、どちらも時代との微妙な距離感が歌われている。
社会を変えようとコミットしていくのでもなく、また巻き込まれて押し流されるのでもない。あくまで斜(はす)に構えて距離を置き自分を保とうとする。それが彼らの姿勢だ。

「かくれんぼ」は、男女の微妙な心の行き違いを描いているように見える詞だ。そのように解説している文章もしばしば見かける。
しかし私にはもっと抽象度の高い、時代との距離、他者との関係が歌われているように聴こえる。
部屋の中で「熱いお茶を飲んでいる」私と対比される外の世界のイメージは、たとえば次のように切り取られている。
「風はすっかり凪いでしまった」、「雪融けなんぞはなかったのです」、「雪景色は外なのです」等など…。
外の世界への冷ややかな視線と自分との間の距離が浮かび上がる。

そして他者とのコミュニケーションの不毛が次のように象徴的に語られる。
「吐息のような嘘が一片」、「絵に描いたような顔が笑う」そしてブリッジの「もう何も喋らないで…君の言葉が聞こえないから」…。
ここに窺えるのはコミュニケーションへの諦念さえ感じさせる透明な孤独感だ。その透明さが美しい。

「12月の雨の日」で印象的なのは、雨の街の風景の叙情性だ。
「流れる人波」の中の「雨に憑かれたひと」たちや「雨に病んだ飢(かわ)いたこころ」を、雨に濡れた街がやさしく包み込む。「流れる人波」(=時代)を距離を置いて見ている冷ややかでシニカルな視線が、叙情の中に落とし込まれている。

「いらいら」は、このアルバムで4番目の名曲だ。
うろ覚えだがたしか大瀧はこの曲についてこんなことを語っていた。この曲は、その後に作った「颱風(たいふう)」や「びんぼう」といった曲に先立つ「四文字タイトル曲」シリーズの最初にあたるものなのだと。もちろんどこまで本気で言っているのかは定かでないが。
しかしこの曲は「颱風」や「びんぼう」のようなノヴェルティ・ソングではない。閉塞的な時代の気分を端的にすくい取ったシリアスな曲だと思うし、だから共感を覚える。

それにしてもこの曲に限らないのだが、この頃の大瀧には、後に能天気でマニアックなオールディーズ世界に耽溺していく人とは思われないウェットでシリアスな一面があった。もっとそんな大瀧の曲を聴きたかった。

「いらいら」から曲間なしで始まる「朝:は、まるで「いらいら」を「救済」するような曲だ。陽だまりのようにピュアな幸福感に満ちている。ほぼアコースティック・ギターとドラムだけの伴奏。翌71年8月の全日本フォークジャンボリーのライヴでは、この曲をバンド・サウンドで演奏している。それでもなおこの曲のデリケートな表情が出ていたことに感心した。

このアルバム『ゆでめん』のラストは、「続はっぴーいいえーんど」。松本の詩の朗読と例のおどろおどろしい鈴の音と「呪文」で何とも後味悪くアルバムは幕を閉じる。この終わり方はもうちょっと何とかならなかったのかなあと思う。
このラストのせいばかりではないのだが、『ゆでめん』は全体としては、暗くて重くて結局ソフィスティケイトされた「四畳半フォーク」という印象を当時も感じたし、今もそれは変わっていない。
そして、そこが悪いのではなくて逆に良いのだ。

1 件のコメント:

  1. 45年前、名古屋のレコード店で働いて居た時、同僚の彼の『シナトラ』を尋ねて大滝さんが彼女の処へ尋ねて来てました。私もほんの少し話しましたが、その頃からオーラがありました!
    薔薇少女http://barasyoujo.blog.so-net.ne.jp/

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